資料1

貞観政要に学ぶリーダーシップ

(参考)
帝王学 山本七平 著 日経ビジネス文庫
貞観政要上下 原田種成 著 明治書院
貞観政要 守屋洋 著 徳間書店

貞観政要は、名君の誉れ高い唐の太宗(李世民・在位626~649年)と名臣達の政治問答集である。太宗の没後50年後に呉兢によって編さんされた。
貞観政要は、古来から帝王学の教科書として珍重されてきた。
帝王学には二つの側面があるといわれる。一つは、トップの人間学、トップとしての生きざま。これが後天的な努力によって習得可能と考えるところに帝王学は成り立つ
もう一つは、守成の心得。帝王学の眼目は、トップの座を射とめるための戦略戦術のみにあるのではなく、トップの座を維持せんがための守成の心得にもある。
つまり。守成の時代を生きるトップの人間学、これが帝王学の今日的内容と考えられる。

日本では、平安時代からすでによく読まれていたが、本書から強く影響を受けた人物としては、北条政子と徳川家康があげられる。
鎌倉時代、北条氏による執権政治の基礎を固め、尼将軍として権力をふるった北条政子は、菅原為長に命じて和訳させ、代々この書を治世の参考書として重んじた。
徳川家康も、この書を愛好し、藤原惺窩を召して講義させ、足利学校に出版を命じて、その普及につとめた。
また、歴代の天皇も、帝王学の教科書としてご進講を受けてきた。
明治天皇も侍講の元田永孚(教育勅語の起草者)のご進講を受けた。

1.太宗のプロフィールと名臣たち

太宗・李世民は、598年 隋の武将、李淵(高祖)の二男として生まれた。隋末の混乱の中 617年、太原の総司令官だった李淵に挙兵をすすめ、自ら先陣を切って首都長安を陥れた。
翌年煬帝は殺害され、李淵は恭帝から譲られ皇帝となり、唐王朝を創建した。
創業後間もない唐王朝が軍事危機を乗り切るうえで、李世民は抜群の働きをした。世民の声望と威信はひときわ高まった。
これをねたみ、兄の建成(太子)は、弟元吉(斉王)と手を結んで、世民を亡き者にしようと考えた。
当初、迷って決断出来なかった世民も、側近の献策に従って、逆に兄建成と弟元吉を、玄武門で殺害した。
高宗は世民を皇太子に立て、翌626年皇帝の座を太宗に譲った。
即位した太宗がまず心掛けたのは、民生の安定であった(エピソード)太宗が即位して5年後には犯罪も少なく安定した平和な社会が現出した。

太宗を補佐した主な名臣

①房玄齢と杜如晦

太宗は即位前、「十八学士」とよばれた人材に学問政治の研究をさせて、将来の治世に備えていた。房玄齢と杜如晦はその筆頭。
玄武門の変も、この二人の進言による。
房杜コンビの宰相として、貞観の治を成功させ、名声を得た。
仕事ぶりは対照的で、房玄齢は企画力に優れ、杜如晦は決断力に富んでいた。

②魏徴と王珪

房杜がはえぬきの側近であったのに対し、魏徴と王珪は、太宗の敵対陣営、太子建成の側に属し、建成の死後、太宗にその才能を認められて側近に登用された。
房杜がよく太宗の意を体して表側の政治を担当したのに対し、この二人は太宗に近侍し、直言をもって補佐した。
魏徴は太子の謀臣として、太宗の失脚を図った。しかし、建成が破れ、魏徴は太宗の前にひきすえられた。

「汝わが兄弟を離間するは何ぞや」
魏徴は少しも悪びれず、従容として答えた。
「皇太子、もし臣が言に従いしならば、必ず今日の禍いなかりしならん」
太宗はこの一言で側近に召しかかえた。魏徴もよく知遇に応えた。

王珪は事破れて四川に流されたが、のちに太宗に召されて諫議大夫に任命された。
以後、待従職を歴任、直言をもって太宗に仕えた。

③文徳皇后

太宗は、妃・文徳皇后が貞観十年、36才の若さで没したとき「一良佐」を失ったと嘆き悲しんだ。
皇后は13歳で太宗に嫁して、常に倹約を守り、読書に励んで、内助につとめた。
あるとき太宗が臣下の賞罰について皇后にはかったところ「女がでしゃばるのは家を滅ぼすもと」とついに答えなかった。
また、実兄を宰相にとりたてようとしたとき、「妻の兄をもって宰執とするなかれ」と最後まで反対した。(エピソード)

2.治世の要諦

①明君と暗君のちがい(君道第一 第二章)

貞観二年に、太宗が魏徴に問うて言われた、「どのようなのを明君・暗君というのであろうか」と。
魏徴がお答えして言った、「君があきらかである理由は、多くの人の意見を聞[いてその良いものを用いる]からであります。その暗い理由は、一方の人の言うことだけを信じるからであります。
詩経に『昔の賢者が言っている。薪を採るような賤しい人の意見も聞く』とあります。昔、尭舜の政治は、四方の門を開いて[賢俊を来たらせ]、四方の視聴を広めて[てふさがることがないようにし]たのであります。
ですから、その聖なることは、照らさないことはありませんでした。
そのために共工・鯀のやからも、聖明を塞ぐことはできなかったのであり、静かなときは能く言うが用いるときは違うという言行不一致の者も惑わすことができなかったのであります。

②草創と守成といずれか難き(君道第一 第三章)

貞観十年に、太宗が左右の侍臣たちに語って言われた、「帝王の事業の中で、創業と守成と、どちらが困難であろうか」と。
尚書左僕射の房玄齢がお答えして言った、「国家創業の当時には、天下が乱れ群雄が先を争って各地に割拠しており、それらの強敵を攻撃して打ち破っては降参させ、戦争に勝って、やっと打ち平らげました。
こういう命がけの困難な点から申しますれば、創業が困難だと思います。」と。
魏徴がお答えをして言った、「帝王が起こるときは、必ず前代の極度に衰え乱れたあとを受け、かの愚かでずるいやつを打ち破り、
人民たちは[そういう混乱した世を平定してくれた人を天子として]推し戴くことを心から楽しみ、天下の万民がなつき従います。
だから、[帝王となることは]天が授け人民が与えたもので、それは、困難なものとは思われません。しかしながら、[帝王の地位を]得てしまった後は、[何事も自己の思いのとおりになるため]志向が、かって気ままになります。
人民たちは、[長い戦乱の後に、やっと平和が到来したので]安静な生活を希望しているのに、城郭や宮殿その他を営造する土木工事のために駆り出される]労役がやむことなく、
人民たちは、へとへとに弱りはてていても、帝王のぜいたくな仕事は休止することがありません。
国が衰えて破滅するのは、常にこういう原因から起こります。この点から言いますれば、完成されたものを維持して行くというほうが困難でございます」と。
太宗が言うには、「房玄齢は、その昔、私に従って天下を平定し、漏れなく艱難辛苦を経験し、ほとんど死ぬべき危急の場合をのがれて、かろうじて助かったというような目に出会っている。
彼は創業の困難を、実際に見ているからである。魏徴のほうは、私と共に天下を安定させ、わがままかってや、おごり高ぶる心が少しでも起これば、必ず危険滅亡の場面に出逢うであろうことを心配している。
しかし、今は、創業の困難は、もはや過ぎ去ってしまった。守成の困難のほうは、当然公等といっしょに、よく慎んでいこうということを思わねばならない」と。

③安きに居て危きを思う(君道第一 第五章)

貞観十五年に、太宗が左右の侍臣たちに、天下を守ることの難易を問うた。侍中の魏徴は、非常に困難であると答えた。
それについて太宗は、「賢者能者を[信頼して]政務に任じさせ、[臣下の厳しい]忠告を聞き納れればよろしいではないか。どうして困難というのであるか」と[反問した]。
魏徴が言うには、「古来からの帝王を観察しまするに、国家の憂危の際においては、賢者を任用し、諌めを受け納れます。が、一たび平和になり安楽になりますと、必ず緩み怠る心を持つようになります。
[君主が平和な]安楽な状態に寄りかかって、緩み怠りたいと思っているときには、諌めようとする者も、[つい君主の心にさからうのを]恐懼し[て諌めなくさせ]てしまいます。
[その結果]しだいしだいに悪い状態になり、ついには国家の危亡を招くようになります。昔の聖人が国家の安らかなときにも、いつも危難のときを思って緊張していたのは、正しくこれがためであります。
ですから、安らかでありながら大いに警戒しなければなりません。どうして困難でないと言えましょうや」と。

④君は舟なり、人は水なり(政体第二 第七章)

貞観六年に、太宗が左右の侍臣たちに語って言われた、「古来の帝王をよく観察するに、盛があれば衰があることは、朝があれば日暮れがあると同様である。
[その衰亡するのは]皆、臣下が君主の耳や目をおおいくらますために、君主は時の政治の善悪を全く知ることがない、そして、忠正の者は何も言わず、心がねじけて、おべっかのうまい者ばかりが、日増しに君主のそばに接近している。
[そのようにして君主自身が政治上の]過失を見ることがないのだから、国家が滅亡するようになってしまうのは当然である。
我は、宮中の奥深くに居るようになってしまっているから、天下の出来事のすべてを知り尽くすことはできない。それゆえ、その任務をあなた方に分担させ、我の耳や目の代わりとしているのである。
今、天下は無事で、世の中は安寧であるからといって、気にかけずに安易に思ってはならないぞよ。
書経に『君が徳をもって人民を愛すれば、民もまた君を敬愛する。君が無道であれば民は離反するから、恐るべきものである』という語がある。
天子というものは、立派な道徳を持っていれば、人民は推し載いて君主とする。ところが、無道であれば、人民はその地位を奪って捨てて用いない。ほんとうに恐るべきものである」と。

魏徴はそれにお答えして言った。
「古来から、国を失った君主は、皆すべて国が安らかなときに、危険であったときのことを忘れてしまい、治まっているときに、乱れていたときのことを忘れてしまっている。
それが国家を長久に維持することのできない理由であります。今、陛下は、その富は天下のすべてを保有し、国の内外が清平で安泰でありながらも、よく御心を政治のあり方に留められ、
常に深い淵に臨み薄い氷を踏むように、びくびくと用心深く恐れ慎んでおられますから、わが国家が存続する年数は、自然に、国威が輝いて長久になるでありましょう。
私はまた、こういう言葉を聞いております、古語に『君主は舟であり、人民は水である」水は舟を浮かべて載せるものであるが、一方また舟を転覆させるものでもある』とあります。
陛下は、人民というものは恐るべきものであるとお考えになっておられますが、まことに陛下のお考えのとおりであります」と。

⑤なんの代にか賢なからん(論択官第七 第三章)

貞観二年に、太宗が尚書右僕射の封徳彝に語って言われた、「平和な国家を作り出す根本は、ただ、立派な人材を得ることにある。
このごろ、公に賢才を挙用することを命じたのに、まだ一人も推薦したものがない。天下を治めるということは、まことに重大である。公は、我の心労を分担すべきである。
公が賢才を発見して言ってくれない以上は、我は誰を頼りにしようぞ」と。[封徳彝が]お答えして言った、「私は愚か者でございますが、なにも私の精魂を尽くさないわけではございません。
ただ、今日の世を見ますところ、まだ別格の衆に抜きん出た特異な才能のある者が見当たらないのでございます」と。
太宗が言われた、「前の世の明君は臣下の人を使うのに、それぞれの器量に応じて使った。才能のある人物を別の時代から借りて来たものではなくして、皆すべてが、人材をその時代の中から採用したのである。
なにも、[殷の高宗が]傳説を夢に見、[周の文王が]呂尚に出会うという[ような奇蹟が起こるの]を待ってから、その後に政治をするものであろうか。
いつの時代でも賢才がないということがあろうか。ただ、[あたら有為の賢才がいるのにもかかわらず]それを取り遺して、知らないということを、いちばん心配するだけであるぞ」と。
封徳彝は[自分の怠慢が]はずかしくなり、顔を真赤にして退出した。

⑥六正し六邪(論択官第七 第十章)

それ故に説苑にこのように言っております。
『人臣の行いに、六正を修めれれば栄えて誉められ、六邪を犯せばけなされて辱めを受ける。六正とは何であるか。
第一には、物事のきざしがまだ動かず、そのきざしがまだ現れない前に、明らかに国家の存亡の分かれめ[にかかわるか否か]を見抜き、前もって事が起こらぬときに押さえ止め、
主君には[何のかかわりも心配もさせずに]高く離れて尊く栄える地位に立たせる。このような者は聖臣である。
第二には、何者にもとらわれず、わだかまりもない心で、善を行い道に精通し、主君に礼儀を実践させ、主君にすぐれたはかりごとを進言し、主君の美点は推奨し従い導き、主君の欠点は正して救う。このような者は良臣である。
第三には、朝は早く起き夜は晩く寝て[仕事に精を出し]、賢者を進めることに怠らず、度々往古の聖人の立派な行いを申し上げて、主君の心を励ます。このようなものは忠臣である。
第四には、事件の成功するか失敗するかを明らかに観察し、早く危険を防いで救い、くい違いを調整し、禍を転じて福とし、主君には少しも心配させないようにする。このような者は智臣である。
第五には、法律を尊重し、賢人を推挙し、職務に精励し、高祿を辞退し、賜物を人に譲り、衣食は節倹を旨とする。このような者は貞臣である。
第六には、国家が乱れたとき、おもねりへつらうことを為さず、進んで主君のおごそかな顔を犯し、[怒りを恐れずに]面前で主君の過失を述べて諌める。このような者は直臣である。これを六正という。

六邪とは何であるか。第一には、官職に安住して俸祿だけを欲張り、公務に精励せず、ただ世俗に順応して行動し、ひたすら周囲の情勢をうかがっている。このような者は具臣である。
第二には、主君の言葉はすべて善であるとほめ、主君の行為はすべて良いとほめ、ひそかに主君の好むものをつきとめて、これを主君に進めて主君の耳や目を喜ばせ、主君に迎合してやたらに気に入るようにし、主君と共に楽しんで、
その後の害などは少しも心配しない。このような者は諛臣である。
第三には、心の中は陰険邪悪であるのに外面の要望は小心謹厳で、口が上手で温和な顔をし、立派な人物をねたみ嫌い、自分が推挙しようとする人物は、その長所だけを明らかにして短所を隠し、
退けようとする人物は、その短所だけを明らかにして長所を隠し、主君に賞罰は正しく行われず、命令は実行されないようにならせる。このような者は姦臣である。
第四には、その知恵は自分の非をごまかすのに十分であり、その弁舌は自分の主張を実行させるのに十分であり、家庭内では骨肉の間柄を離間させ、外では朝廷内にもめごとを作りあげる。このような者は讒臣である。
第五には、権勢を自分の思うままにし、自分に都合よいように[善悪可否の]標準を変更し、自分の家を中心にして徒党を組んで資材を富まし、自分勝手に主君の命令を変更して自分の地位や名誉を高める。このような者は賊臣である。
第六には、よこしまなへつらいの言葉によって主君に陥れ、仲間同士がぐるになって[賢者を排斥して]主君の眼をくらまし、白も黒も一緒にし、是も非も区別をなくし、主君の悪事を国中に広め四方の国々にまでも聞こえさせる。
このような者は亡国の民である。以上の六種のものを六邪というのである。
賢臣は六正の道を離れず、六邪の術を行わない。だから主君は安泰で、民はよく治まり、生存中は喜ばれ死後も慕われる。これが人臣の術である』とあります。

⑦流水の清濁はその源にあり(論誠信第十七 第一章)

貞観の初年に、上書して邪佞の臣を除去するようにと願い出た者があった。太宗は、その者に言われた、「我の任用している臣下は、すべて賢人であると思っている。あなたは、邪佞の者が誰であるのか知っているのか」と。
すると、お答えして言うに、「私は民間におりまして、明らかに誰が佞者であるかを存じません。どうか、陛下が詐って怒ったふりをして、群臣たちを試してごらん下さい。
もし、天子のお怒りを恐れず、遠慮せず、自己の正しいと信ずる諫言を申し上げる者は、これ正人であります。[それに反して]君主の意思のままに従い、そんな仰せにも、へつらいおもねる者は、これは佞人であります」と。
太宗は[この上書を見て]封徳彝に語って言われた、「我は『川の流れの清濁は、その原因が水源にあるのだ』という言葉を聞いている。君主は政治の水源であり、万民は川の流れと同じである。
君主自身が。うそ詐りを行って、臣下に正直を行ってほしいと希望するのは、これは、ちょうど水源が濁りながらも、川の水の清いことを望むのと同じである。
[そんなことは]道理として、あり得ないことである。我は、かねてから、魏の武帝が、人をいつわり欺く行為が多いので、ひどく、その人柄を卑しみ軽蔑していた。
[だから]この進言を、どうして教令として実施することに、がまんできようか[我には、とても、詐って臣下の正邪を試すなどということはできない]」と。
上書した人に言うには、「我は、大きな信義というものが広く天下に行われるようにさせたいと希望しており、詐りの方法によって、民衆に教え示したいとは思わない。あなたの言には、少しも意義がない。
だから、我の採用しないところのものである」と。

平成28年度ヤングリーダー研修会 熊谷大会

開催日時
平成29年2月4日(土)
登録受付/12:00~12:50
オープニング/13:00〜
メイン会場
熊谷市立文化センター
主催
埼玉県商工会議所青年部連合会
後援
埼玉県/熊谷市/(一社)埼玉県商工会議所連合会
主管
熊谷商工会議所青年部

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